「勉強」することを考える

「勉強する」「勉強させてもらう」「勉強になりました」という言葉をよく聞くことがあります。
この「勉強」という言葉には、実は盲点があります。私たちは「勉強」という言葉を使う時にはその時点でほとんど自分の利益になったということで使うケースと考えてよいでしょう。
しかしこの「勉強」という言葉には不利益になったという意味での「勉強」という意味もあることを留意しておく必要があります。
人間はいろいろな事象について自分の価値観にあわせて利益とか不利益でついつい考えてしまいます。
「勉強」にもそういう観点がつきまとうのは当然であります。
繰り返しになるが「勉強する」「勉強させてもうらう」「勉強になりました」といっても、この二つの相反する評価で考えてみるとやはり感じるものがあるのが道理です。
そのなかでもその時点で不利益になる「勉強」とはなんだろうか考えてしまいます。
私はこの観点をとくにいつぞやから重視するようになりました。
つまり不利益になった「勉強」はいまはそうであってもこれから「利益」にかえるというさらなる努力感をともなうという心理的効果です。
私は話相手から「勉強」という言葉を聞くとき明らかにこの人は損をしている思うことがあるときにはやはり警戒してしまいます。
つまり私への「再戦」をきしているからです。
でもなんとなくうれしくプラス思考でその人をみるようにもしています。
「再会」への約束、つまり「再戦」(敵対関係)より「再会」(友好関係)で、すえながい友人関係(継続)への希望的な観測であります。
このほうがよいと思います。


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